「いいゲーム」とか「面白かった」はもううんざり!
もっと濃いレビューが読みたい!
先日、久しぶりに再会した古参ゲーマーと話す機会に恵まれた。
まわりに最近老害呼ばわりされているんだと自笑を浮かべた彼は、こちらが聞いてもいないのに最近遊んだ新作ゲームについて、まくしたてるように語り始めた。
早口すぎてところどころ何を言ってるのかわからなかったが、知見に基づくピンポイントすぎる賞賛と、毒をたっぷり含ませた底意地の悪いジョークが、ない交ぜになったそれは、まさに批評と呼ぶにふさわしいものだった。
偏ったボードゲームの批評をもっと聞きたい。そう思い立ち、ウェブを見渡して見ても求めているものがなかなか見つからない。
じゃ、自分で作るかと、老害と呼ばれがちな人達にレビューをお願いして、クロスレビュー風にまとめてみることにした。
上がってきた原稿はどれも個性に溢れており、期待どおりの内容なのだが、みなさん書きたいことが多すぎて、ことごとく文字数がオーバーしてるって!
マニアから奇人まで、クセのある方々のゲームレビューをまとめて掲載する。前記の理由により人によっては長文すぎて読みにくい仕様となっておりますのでご了承を。でも、これこそが私が読みたかったレビューだ!
フルーツジュース
原題:Fabled Fruit/ デザイナー:Friedemann Friese/ メーカー:日本語版 アークライトゲームズ、2F-Spiele
発売年:2017年 / 価格 3888円
プレイ人数:2人~5人
プレイ時間:25分(1ゲーム)
対象年齢:8歳~
イカレたミドリ野郎ことフリードマン・フリーゼの新たな実験作。かわいらしいパッケージやテーマとは裏腹に、じわじわ首を絞め合うシビアな駆け引きと、計算されたカード構成が織りなす展開の変化はさすがの一言。全59種240枚のカードを使い切ったとき本当のゲーム終了が訪れる。
フルーツジュース職人の一日は長い。なぜなら、膨大な量のジュースを作らなければならないからだ。場に出た動物カードにコマを乗せ、そのカードの効果を発動させてフルーツカードを集め、ジュースを作る。ジュースが完成するたびに新しい動物カードが場に1枚ずつ追加される。プレイ人数によって特定の本数ジュースを作れば勝者が決まってゲームが終了。次のゲームは先ほどの続きから始まる。
動物カードには種類ごとに番号が振られており順番に場に登場する。カードは全部で59種類240枚。1つジュースを作ると動物カードを1枚手にいれる。1枚が1点となり、新しいカードがまた場に1枚出る。場のカードが入れ替わることで市場が動き、プレイ内容に変化が現れる。ゲームの本当の終わりはすべてのカードを使い切ったとき。2~4人プレイだと1ゲームに消費するカードは最大でも9枚。つまり少なくとも27ゲーム遊ばなければ終わらない。こんなルールを考えたやつ誰だよ!! と思ったら、みんな大好きフリードマン・フリーゼ。納得。
犠牲者を最小限に抑えようと、2人でゲームを始める。これが間違いだったのか・・・。基本2人以上が同じカードの上には乗れない。乗るためにはコストを払う必要があるため、取り合いになるのがゲームのキモでもあるのだが、2人プレイだと選択肢が豊富なため、そのあたりがゆるく、苦しさは薄まっているようだ。さらに、「各プレイヤーからカードを集めて再分配」など、いくつかのカードが本来の効果を発揮できなかった。しかし、おのずと相手の次の一手を読み合うので、プレイを続けていると、徐々に一手のミスが勝敗を左右する熱い展開に!
それにしても、カードの効果が多種多様。単純に果物を取る、相手の果物を奪う、運試し的にカードを引くなど、よくもまあここまでルールのパターンを集めたものだな。と感心する。とはいえ、長い。とにかく長い。
途中から「最後のカードを見る!」を合言葉にゲームを進める。しかしなかなか終わりはこない。なんせ240枚もカードがあるのだ。
開始から4時間。最後のカードが現れたとき、2人で喜びを分かち合った。ゲームが終わるのがこんなに嬉しいと感じたことは無い! だから勝敗なんてどうでもいいよね・・・(負けました)。
ふと箱裏を見ると「あなたはのどが渇いているうえ、貪欲です。その渇きを至高のジュースによって、たっぷり満たしましょう!」と書かれている。さすがフリーゼ。ほんとにおなかいっぱいだよ。げふっ。
札幌在住ボードゲーム歴2年目の新人。ポジティブゲーマー。好きなゲームは「ランカスター」「トラヤヌス」「ポンジスキーム」。
ピュアなハートの道産子女子。老害たちを引き立てる〝かませ犬〟として無理を承知でレビューをオファー。で、まさかの快諾。なにかにつけて「いいゲーム」とか「面白い」とか書いちゃう、ありがちなレビューを期待していたのだが、どこかゆがんだ愛の溢れるテキストが届いたので最初の趣旨とは違うけど掲載。ゲーム歴2年目の何でもかんでも遊びたいざかり。
↓↓↓このリンクから広告収入が入ると笑顔がこぼれます。ありがとうございます↓↓↓
↑↑↑こんにちは↑↑↑
誰でも知ってることとはいえ改めてまず確認しておく必要があるのは、フリーゼはドイツのゲーム作家としては特殊な位置にいる人だということです。ドイツのボードゲームシーンは歴史的経緯から「まずは家庭向けの産業である」という規範が強く、同人上がりのハンス・イム・グリュックやアバクスも何だかんだ言ってこの規範に付き合っているくらいですから、彼のようにインディペンデントなゲーム制作同人という立場を概ね保ち続けている人というのはそれ自体がわりあい珍しい。
その上で、初期の彼は『偽金造り』やカニバリズムなどテーマ的にメジャーが取り上げづらいところを攻めたり、あるいは『フレッシュ・フィッシュ』や『フィッシュ・フルッペ・フリカデル』のようにメジャーではNGが出るような癖の強いシステムを中心にゲームを組んだりしていました。その後、特にここ十年ほどは、何か他のゲームやシーン自体に対して批評的に言及するようなゲームを定期的に出しています。初期から現在に至るまで「シーンの中心部と相対する」という姿勢は一貫していますが、現在の彼が繰り出す『コピーキャット』や『504』のようにシーンとプレイヤーへの嫌がらせを主目的としたゲームを見ていると、何というか業がずいぶん深くなってきたなという感を受けます。
ということで本作『フルーツジュース』、これはもちろん『パンデミック・レガシー』を代表とするロブ・ダヴィオーのレガシー・コンセプトを参照しているわけですが……あのー、皆さん、そもそも『パンデミック・レガシー・シーズン1』、新規性を剥ぎ取ってゲームプレイ自体を眺めたとき、本当に最後まで面白かったですか? いや俺10月までしかやってないんで大きなことは言えないんですが、結局これシンプルさが魅力だった『パンデミック』を繰り返し繰り返し遊ぶ毎に余計なルールが増えて加速度的にめんどくさくなっていく(でも『パンデミック』以上のものにはならない)だけじゃないの、という疑問がどうしたってあるわけです。
いやレガシー・コンセプト自体には可能性があると思いますし、その可能性が提示されたということは無論それ単体で重要な価値なんですが、この実装は正しかったのか。ストーリーらしきものと、何よりもシール貼ったりカード破いたりする玩具的なギミックに誤魔化されてるだけなんじゃないのか、と。
では実際にレガシー・コンセプトからそうした装飾を取り去った時に何が現れるのか。『フルーツジュース』において行われているのはそういうことです。ですが、普通こういうことを商業デザイナーがやる場合、剥ぎ取った状態でも残るものがあることを予め検証してから提出するとか、あるいはそうでないならそうでないなりに別の快楽を足し込むことでひとつの提案という形を整える、もしそこまで行けなかったとしても付き合わされるプレイヤーへの最低限のフォローは入れておく、という風にするはずです。でもフリーゼはフリーゼなので、虚飾を剥ぎ取って骨だけにしたまま平然とプレイヤーに出しちゃうんですよね。
批評として見るならそのほうが解りやすくて良いとは言えますし、確かにフリーゼにしかできないことでもあり、これまで彼がやってきたこととも完全に一貫してはいるんですけども。ただ「結局あれってこの程度のゲームなわけだろ?」とこのゲームを突きつけられても、確かにそうだねという同意の後に「ところで今ぼくは面白いゲームをプレイしたいと思ってこの場にいるんですが、そのような期待は間違いですか」と問いたくなるのは人情というものでしょう。平然と「然り、そのような期待は誤りである」と答えるような人間じゃないと『504』なんか出さないよな、とも思いつつ。
我ら99%、ただし残り1%の手先。共謀罪絡みの報道を聞きながら、どっか手頃な国の永住権が半額セールになってたりしないかな、と通販サイトを漁っております。
ここ1-2年では「ポンジスキーム」(2015)と「四人の容疑者」(2016)の印象が強く残ってます。もちろん「フードチェーンマグネイト」(2015)も好きですが、たぶん他の人のラヴ具合に追いつけてません。
近況:『パラノイア【ハイプログラマーズ】』が印刷工程まで進み、ようやく締切の多重債務に多少の整理が入り始めました。
「ゴーストップ」「スクエアオンセール」などのデザイナーでもあり、ニューゲームズオーダーの中の人として様々なゲームの日本語版制作を手がける。「重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史」はゲーマー必読の書。ドイツゲームに関する講演なども行っている。最近、東京ドイツゲーム賞で、「六次化農村」に独断で賞を与えて商品化したことでも話題に。日本ボードゲーム界の良心。
↓↓↓このボタンを押すとお金が入ると聞いて作ってみました。ありがとうございます↓↓↓
↑↑↑こんにちは↑↑↑
「『フルーツジュース』は『ディアブロ』に例えやすいですよ」
と実際に言った事がある。
これはとんでもない戯言であった、とまずは記したい。
『フルーツジュース』のメルヘンな明るさに対し、『ディアブロ3』に描かれるのは究極の悪だ。
『フルーツジュース』で笑顔になった後、一人家へと帰り『ディアブロ3』をやろうと試みたが、
陽から陰への転換に心が追いつかなかった。
疲れているのかもしれない。
私は心を落ち着かせるため、クエン酸をたっぷりと入れた湯舟につかりながら『ディアブロ3』と『フルーツジュース』について思いを巡らせた。
そして、いつもよりたっぷりつけたトリートメントを洗い流す際に、いつになく多くの抜け毛がわたしの指に絡みついた。
この抜け毛の量を見るに、(これでも意外と繊細な)私の心の機微を悟った毛髪たちが私の前頭葉以外からも抜けることで、私の心のアンバランスな部分を本体である私自身に悟らせようとしたのではないか。
それに気がついた時、私のディアブロ生活に一抹のジュースの染みが出来た。
『フルーツジュース』は、その名の通りフルーツジュースを作るゲームだ。
フルーツカードを集めて、場に出ている動物カードのジュース作成の条件を満たすと美味しいジュースが完成する。
場のカードはジュースの条件と、プレイヤーの取れる行動について書かれていて、そのどちらを選択するのも自由だ。
動物カードはジュースが出来るたびに、場から取り除かれる。このシステムにより場は徐々に刷新されてゆくので、場はいつも新鮮である。
さっきまでは叩き売りされていたバナナが、急に高騰したりするのだ。
また、ある程度他のプレイヤーがどのフルーツを集めているかは行動から推測しやすいので、わかりやすい読み合いも楽しめる。
場に出るカードは少しずつ高度な内容になっていき、新しい動物カードが出るとまた新たな読み合いになるのだ。
『ディアブロ3』は墓場や地獄を連想させる暗くて怖いマップが殆どだ。
棺桶に潜むアンデットやオブジェとしての拷問具には恐怖しか感じない。
そんな恐ろしい世界で、来る日も来る日も敵の殲滅に注力しなければならないのだが、唯一メルヘンなマップがある。
特定のゴブリンを倒すと現れるポータルから行けるよじれ(ねじれ)虹の国だ。
虹がかかり、ももいろユニコーンやだっこぐまという愛らしいぬいぐるみがエネミーとして登場する、若干サイケデリックなメルヘン世界だ。
この国に序盤で運良く行けると、宝石とお金の面でその後がかなり楽になる(ある程度進むと宝石やお金に困らなくなるので、あくまで序盤の話)。
ねじれ虹の国でプレイヤーは笑顔のくもに迎えられ、プレゼントへと形を変えた宝箱を開け金銀財宝を漁りつつ、敵を倒して行く。
世界は違えどやることは同じで、とてもかわいいくまちゃんやユニコーンを、躊躇なく切り刻まねばならないのだ。
『フルーツジュース』ではフルーツが(ゲーム上出てこないが鋭く尖った爪を持つジュース係の動物など)何某かの力で切り刻まれジュースにされているのだろう、と考えると私が『ディアブロ3』で行なっている行為はジューサー的な位置と言えなくもない。
こう思いこむことは、私が再びネファレムとなるきっかけになり得るのではないか。
『ディアブロ3』にはストーリーモードがあり、ストーリーとしてのENDはあるが、ラスボスを倒しlv.70になってやっとスタート地点に立ったと言える。
ネファレムとは天使と悪魔の子である。かつ人類の始祖とされ、プレイヤーが操るキャラクターなのだが、言わずもがな私はプレイ中は自分はネファレムであるという自己暗示の支配下にある。
普段は冴えない半引きこもりの私が唯一輝けるのがネファレムというゾーンだ。
何百時間をネファレムとして過ごした私は、いっぱしのネファレムであると言えると自負している。
『フルーツジュース』は、59種類240枚全ての動物カードを使って遊び終えて初めて一通り遊んだことになる。それが1巡目のENDだ。
1回のプレイ時間は30分にも満たないが、全てやり終えるまでにはかなり回数を重ねる必要が出てくる。
『フルーツジュース』と『ディアブロ3』、どちらも長く楽しめて素晴らしいゲームだと心から思う。
心の安寧を求めるならば『フルーツジュース』。荒みきったこの気持ちどうしてくれようかという時には『ディアブロ3』という棲み分けをすることが、対極にあるこの2つの素晴らしいゲームを長く楽しむ道ではないか。
私の心に入り込んだフレッシュなジュース。
もしかしたら染みは消えないかもしれないが、考え方次第では、そして私の心の整理さえつけば、どちらにも寄り添える可能性はある。
最後まで『フルーツジュース』をプレイした時に、私はその答えを見つけるのかもしれない。
そんなことを風呂場の排水溝を掃除しながら、ため息混じりに思ったのだ。
そういえば昔、風呂場の排水溝の掃除をしていて、私以外の誰かの差し歯が出てきたことがある。私の長い抜け毛に絡まれた差し歯には恐怖しか感じなかった。
掃除好き女子❤を自負し、女子力高めなフリをする自分と、排水溝から見知らぬ誰かの差し歯が出てくる不条理な恐怖というのは、『フルーツジュース』と『ディアブロ3』の関係性と近からずも遠からずだと思う。
会社員時代の部活でボードゲーム始めました。まだまだ初心者です。好きなゲームは「ディアブロ3」「Civlizavion」。マルチプレイなら「7 Days to Die」。最近やって面白かったボードゲームは「フルーツジュース」。
ゲームと現実の区別が曖昧なデジタルゲームやり過ぎ女子。「ディアブロ3」では世界ランキング27位に入ったこともあるつわものゲーマー。満員電車で「ネクロマンサーの友人が~」等、強烈なパワーワードを大声で連呼する姿に衝撃を受け、執筆を依頼。なんでもかんでもデジタルゲームに例えてしまうところを除けば良識人。
↓↓↓いつか広告収入だけで宮殿を建てたい↓↓↓
↑↑↑できればずっとボードゲームをしていたい↑↑↑
「家柄がよく 流行にも敏感で なのにちょっぴりデンジャラス!」
婚活業界ならこの上ない優良物件ですが、ボードゲーム界にもこれに勝るとも劣らない「ワーカープレイスメント レガシーシステム なのにまさかのフリーゼ!」といったパワーワードを有する優良タイトルがあります。それがこの『フルーツジュース』です。
ゲームシステムとしては先の言葉に集約されますが基本は場に並べられたカードにアクション駒を配置する所謂ワーカープレイスメントが根幹にあります。ただレガシーシステムを踏襲しており山札の未だ見ぬアクションカードが捲られる度に場のアクションはどんどん上書きされます。つまり「この先どんな展開になるか分からないドキドキ感」と限られたアクション内で「如何に効率的に選択を行うかというキリキリ感」を併せ持つハイブリッドな仕様となっております。
ところで少し話が逸れますが、作者のフリーゼというと全身緑を纏ったあの風貌とマウラ・カルスキー氏のアートワークの印象から「パンクなデザイナー」と称されることがままあります。が、これについてこの場を借りて一言物申したい!
所謂「パンク」から連想されるワードとしては、シンプル、プリミティブ、アナーキズム等が挙げられますがシステムに限った話をするとシンプルさ、プリミティブという言葉からはアレックス・ランドルフを想起しますしアナーキズムと言えば常に革新性を求道するヴラーダ・フヴァチルの姿が重なります。
元々数学の素養があるからか『電力会社』に代表されるように、フリーゼの作品群に抱く印象は破天荒なものではなく篠原涼子が歌うところの「緻密さと計算高さと適度な捻りと」そんな言葉に集約されそうです。
もう音楽好きな方ならピンと来ますよね! そう、イエスです! ジェネシスです! キング・クリムゾンです!
という訳で今後フリーゼのことは「ボードゲーム界のプログレデザイナー」と称してみてはいかがでしょうか。
以前フリーゼ自身の姿をボックスアートに採用した『ラクラク大統領になる方法』というタイトルが話題になりました。ストリートアーティストのシェパード・フェアリーが手がけたバラク・オバマの「HOPE」ポスターが元ネタです。
ビジュアル系プログレデザイナーのフリーゼとしては名盤『キングクリムゾンの宮殿』のジャケット風ボックスアートにも是非挑戦して欲しいと思います。というか、彼のゲームはもう毎回、本人が出てくるパロディイラストにしてほしい。たとえば「フルーツジュース」だったらヴェルヴェット・アンダーグラウンド風にバナナの着ぐるみでも良さそうですね。もうプログレでもなんでもないですが。
大阪在住。でも心は琵琶湖。独身時代に収集した千枚以上のレコードやCDは結婚資金に消え、貯蓄していた老後の蓄えはボードゲームに姿を変えました。好きなジャンルは拡大再生産と'60,'70年代英国Mods。好きなアーティストはフヴァティルとThe JAM。近頃はトリックテイクに興味津々。
ウッドベースのしらべと共に奴が来る! スーツスタイルでバンド活動とか、美女をはべらせてアウトドアとか、夢のような遊びと平行してゲームをたしなむリア充ゲーマー。ビルボードチャートやブランド牛の焼き加減と、エッセンのスカウトアクションが並列する脳内から発する考察が的を射てるのか否かは、鼻クソを食べながら公民館でゲームばっかやってる我々には判断不可能! でもたぶん間違ってる気がします。ていうか、頼むから間違っててくれ!
↓↓↓仕事してる場合じゃない↓↓↓
↑↑↑こうしている間にも積みボードゲームがふえてゆく↑↑↑
馬には乗ってみよ、人には添うてみよ と言われるが、ゲームこそやってみなければ分からない。やってないゲームについて語るのは、読んでない小説、見てない映画について語るのと同程度、いや一層 してはならないことのように私は考える。
ノンリプレイという言い方があるそうだ。「ゲームは一期一会」というほどのこともないのだろうが、確かにこう出版点数が多いのでは、限られた人生の中で何度も同じゲームをやっていられないというのも一理ある。30年前、40年前のゲームシーンを思い起こせば、文字通り隔世の感であり嬉しい悲鳴を通り越して、茫然たる思いとすら言える。
するとノンリプレイを通り越してノンプレイという考え方も現実味を帯びる。一方ゲームはやり込んでこそというメニープレイ派の主張も、もちろん説得力がある。
私はと言えば、かつては「二回プレイ」を目指していた。どんなゲームも二回やる、一回目はルールを理解するために、二回目は自分なりの戦略を試すために。三回とならないのは、多くのゲームを二回やるためだ。とはいえ、それは遠い昔になってしまった。もちろんゲーム界の隆盛のためではあるが、正直に言って自らの老化が大きい。とは言え、やらないで語るのはやはり不味い。
ゲームの点数が多いと言うことは、やって判断するのが難しいということであり、そうすると勢い他人の言説に頼ると言うことになる。すると当然、言説の持つはずの責任が大きくなるわけだ。だから、やらないで語ることは一段と戒めなければならない(はずだ)。
そういう意味で、私はフルーツジュースについて語るのことは半分しかできない(はずだ)。つまりプレーはしているのだが、最後まではやっていない。で、無限ゲームについて語ろうと思う。
40年ぐらい前も、個人的にゲームを作る人は全くいなかったわけではない。数は少なかったが、いたことはいた。それは全く単発的に作るか、あるいは大学のシミュレーションゲームのサークルや、SFクラブ(!)で作るなどのケースであった。私は当時、いろいろな大学の学園祭を覗いて、そのようなゲームをやらせてもらった。残念ながら箸にも棒にもかからないようなものばかりであった。最も致命的なことは、「終わらない」ことである。もちろん全く終わらないわけではないが、延々と作業の続く悪夢のようなゲームが多かった。これが、私がのちに「ゲームの収束と拡散」という論考をものするきっかけの一つとなった。(書苑新社『ゲーム探検隊』1989) そのような経験を重ねた結果、私の考えるゲームにとって最も大切なことは「終わること」となったのである。
繰り返そう。ゲームにとって最も大切なことは、終わることである。これこそがゲーム創作の鉄則である。
本当にそうだろうか。
至福の瞬間という言葉がある。私達が最も幸せを感じたとき、誰しも「時間よ止まれ」あるいは「これが永遠に続いてほしい」と思うのではないだろうか。
私が最初に創ったボードゲームは、伝説(自分で「伝説」と言ってしまうのは封印したからである)のゲーム、その名をドランクという。これは上記の鉄則のアンチテーゼとして 作ったもので、終わらない(笑)。延々とダイスを振り続け、駒は行きつ戻りつする。だが、人は時にそのような純粋に無為な時間にひたっていたいと思うものではないだろうか(思わないかな?)。
私は、フルーツジュースの裏にはこのような無限志向があるのではないかと疑っている。駒1個だけのワーカープレイスメントとでも言うべき簡単な機構で、長手数詰将棋の繰り返し趣向のような手触りを実現した手法には、感心する。これは組み合わせを多重化することによって、いくらでも発展可能であり、カードをもっと増やせば、ほぼ無限へと拡散するのではなかろうか。ゲームはついにこうした着想にさえ到達したのである。
※点数にカッコがついているのは、私が最後までやっていないから。
今、一番やっているゲームは本双六。これは日本で1500年前から遊ばれているボードゲームで、現代のバックギャモンと微妙に違うところが非常に面白い。現在、棋譜をとりながら研究しています。
次は東八拳で、すごく面白い日本伝統のアクションゲームです。浅草で月に3回、例会があるので、ぜひ一度、訪れてみて下さい。それから球磨拳、箸拳(土佐拳)、讃岐拳、なんこ(薩摩拳)。今、研究中なのが本拳で、これはとても難しい。
ゲーム歴40年を超えるゲーム研究家a.k.a.ゲームリュックおじさん。おもしろゲームを詰めこんだ巨大な四角いリュックを背負ってゲーム会を渡り歩く姿は、達観したような表情も相まって、まさにリアル魍魎の匣! 初期のジャッキー・チェンかよ! と思わずツッコミたくなる「○○拳」だらけのプロフィール欄からもわかるとおり、昔遊びに詳しく伝統ゲーム関連の著書も多数。ゲーム・コミュニティの文化史を語った「日本現代卓上遊戯史紀聞」第2巻がamazon Kindleストアで発売中!
ゲーム買ってますか?
アフェリエイトリンクのお知らせです
新しいカードが登場するたび、その効果をみんなで確認するのがテンポが悪いとか、カードの効果にひねりがなくてカードが入れ替わっても続けてプレイする気になれないという評価がドイツにはある。その背景にあるのは、このゲームがレガシー大好きガチゲーマーをターゲットにしたものか、動物・果物大好きファミリーゲーマーをターゲットにしたものか曖昧ということだろう。ガチゲーマー向きならもっとカードの効果にひねりを与えて、新しいのが出るたびに戦略を立て直すようなぐらいにしてもいいし、ファミリーゲーマー向きなら効果をアイコン化して、カードの種類を減らしてもよかっただろう。
2Fシュピーレは『電力会社』で認知されたが、近年は『5本のキュウリ』『フッチカート』などライトなカードゲームをリリースし、ファミリーゲーマーも視野に入れている。昨年の秋に発売された「早送り(Fast Forward)」シリーズ3タイトル(『恐怖(Furcht)』『砦(Festung)』『逃亡(Flucht)』、アークライトはこれらも日本語化するのか?)はシリーズ名こそライトユーザー向けであるが、その実カードにテキストがあったり、プレイ時間が75分だったりとブレがある。フリーゼファンのガチゲーマーと、タイトルがFで始まることもパッケージが緑であることも意識しない通常ゲーマーの両方を満足させる作品を作るのは、果たして欲張りなことなのだろうか? フリーゼの挑戦は続く。
最近お気に入りのゲームは『りゅうほうのおしごと』。お酒飲めなくなりました(美味いビールを除く)。
国内最大のボードゲーム情報サイト「Table Games in the World」を運営するボードゲームジャーナリスト兼住職。「ノンリプレイ派」として遊び倒した経験に基づく知識と、議論術や論理学をベースに徹底分析した解説は理路整然でわかりやすい。国際ゲーム賞International Gamers Awardsでアジア人初の審査員としても活躍。業界で問題が発生するとなぜか責任を押しつけられて炎上する人としても有名。
みんな大好き、緑のFFおじさんが作ったカードを使ったお手軽ワーカープレイスメント風ゲーム。
大量のカードにはアクションや追加ルールが記載されており、ゲームが進むごとにカードが追加されたりなくなったりすることで全体のゲームルールが少しずつ変化していく。
フリーゼは過去作にも『504』とか『トリックマイスター』などルールが変化していく要素のあるゲームを作っている。
ルールの変化や追加、不確定な要素を楽しむゲームは、好きな人にはたまらないジャンルであろう。
ではこのルール変化ゲーというジャンルでの最強作はなんだろうか。老舗の『フラックス』?一世を風靡した『パンデミックレガシー』?
…いいや違うね! 誰が何と言おうと最強は『メイクルール』だ!
まあみんな当然知ってると思うけど簡単に解説すると『メイクルール』は、ボードゲームをぜんぜんやらないのにボードゲームを作り続ける異色のサークル・YbYゲームズが2013年に頒布した作品である。
箱を開けるとまず目に飛び込んでくるのは紙に書かれた「ルールはない」の言葉。ロックだ。最高にロックである。
このゲームは最初に5枚カードが配られるが、このカードで何をするのか最初は何も決められていない。カードに書かれた絵も数字もこの時点では何の意味ももっていない。
さて、ゲームとして遊ぶからにはルールや勝利条件を作った方が面白いだろう、という事でこのゲームはスタートプレイヤーから順番に何か一つのルールを提案していく。それを他のプレイヤーが採用するか却下するか民主主義国家らしく多数決で採決していくのだ。
例えばAが「自分の番になったら山札から一枚カードをドローしないか?」と提案してみる。それを聞いて、(まあぶっちゃけこのカード増えたらどうなるのかよくわかんねーけど増えるのはいいことじゃね?) と思ったら賛成、(毎回ドローとかめんどいからやりたくねー) と思ったら反対する。賛成が反対の同数以上ならめでたくこのルールは採用され、公式ルールとして確定するのである。
続いて次のプレイヤーは現ルールにのっとり一枚ドローしてから次のルールを提案する。
B「じゃあ各手番終了時に手札が一番多いやつが追加で一枚ドロー!」
強欲である。そこまでしてカードを引きたいか。現在手札を6枚持っているのはBだけである。そんなルールは通りそうもないが何故か満場一致で採用され、ホクホク顔で追加ドローするB。
次のプレイヤー、Cの手番へ。
C「じゃあ、最後に一番手札少ない人が勝ちってのはどうだ」
待ちに待った勝利条件の提案である。そしてCは鬼である。
青くなるB。
このルールは当然採用され、この後、自業自得でカードが自動で増え続けるBであった…。
こんな感じでぐるぐる手番を回してルールを増やし、最終的に1人3回ルールを追加したらそのときまでに決まった勝利条件で勝負して勝利者が決まる。
このゲームのすごさは本当にシンプルでむき出しで自由なことだ。誰でも考えられそうなのに今までなかったまさにコロンブスの卵である。
当然だが自由度の代償として面白さを担保するガードレールが一切ないので、ゲームとして成立するかは完全に面子次第。
奇跡のようなセッションになるのか、地獄のほうがまだましという苦行になるのか、やってみないとわからない。
楽しむ力と楽しませる力が限界まで試される最強のゲームである。
そこら辺にある別ゲームのチップを組み込んで使ってもいいし、お絵描きゲームやバランスゲームになってもいいし、いつのまにかリッツパーティーになっててもいいし、どさくさ紛れにプロポーズしてもいい。
ルールを提案して採用されれば、それは常に正しいルールなのだ。
この果てしない自由をいい意味でも悪い意味でも味わってほしい。
さあ、みんなもレッツ! メイクルール!
謎の国産同人仮面。袋ゲーを詰め込んだパンドラの箱が増えすぎて、押し入れという名の天岩戸から溢れ出そうとしている。その瘴気に当てられたのか、はたまた脳の経年劣化なのか、最近は特殊能力などの把握が覚束なくなり、ますますエンジョイ勢に近づきつつある日々。インスト5分以内のゲームをお待ちしております。
好きな漫画家は笠辺哲。最近のお気に入りゲームは『トマトマト』。
ゴミの中に宝がある! の勝新イズムで同人ゲームと呼ばれるものならなんでもかんでも遊んでみる性分。遊ぶ気がまったくおきないプロト版から『惨劇ルーパー』を発掘するなど目利きとしての功績は大きいはず、なのだが、同人ゲームファンやデザイナーから軒並み距離を置かれているのは驚異的な人徳のなさと、ブローカー気質が原因か。ゲームは粗ければ粗いほどいいが信条。